八十里 腰抜け武士の 越す峠

鉄砲隊!前へ!

さて、今回は…、時代は溯り1800年代。長岡藩家老・河井継之助なる人物にスポットを当てたおはなし。今回お邪魔した「河井継之助記念館」は只見町内塩沢地区にあり、勤務時間中に私が初めて来館した場所である。

館内に入るとそこは歴男の血が騒ぐ光景。継之助の生涯や戊辰戦争当時の貴重な資料などが多数展示、保管され幕末の傑人の名は伊達ではなく、かの聯合艦隊総司令官山本五十六も河井と同じ長岡の出身であった。北越戦争後、長岡は焼け野原になり、長岡出身者は苦労を強いられたが、山本は終始河井継之助を尊敬したという。皮肉にも二人は同じような運命を辿る。

河井継之助って?

簡単に紹介すると幕末期に長岡藩の家老を務めた人物。青年期に諸国を放浪つつ山田方谷、佐久間象山、斎藤拙堂などに学ぶ。故郷である長岡藩に戻ると、類まれなる行政手腕で長岡藩の改革を行い、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施し成果を上げる。新政府軍と幕府軍の間で戊辰戦争が勃発すると、本来は家老にはなれない家柄だったが、その手腕を買われ長岡藩家老に就任、軍事総督を任命される。
武装中立を目指し新政府軍と直談判するも失敗し戊辰戦争最大の激戦とされる北越戦争に突入、新政府軍を苦しめるも長岡城下の戦いで足に銃弾を受け負傷。八十里を越え会津へ逃れる際、傷の悪化(諸説では破傷風)により塩沢村(現・只見町塩沢)において42年の生涯を終える。

上記の写真は河井継之助終焉の間。当時のまま移設・展示されている為歴史的にたいへん貴重。

当時最新式だったミニエー銃や会津若松城の瓦の一部なども現存してます。日本に3門しかないガトリング砲や最新兵器の入手など継之助の外交手腕も勉強になりますよ。

塩沢の名前の由来となる製塩施設の復元。細かい所まで再現されていて見応えのあるジオラマに仕上がってます。夢中になって見てたらこれだけで15分見てました。

塩沢の村人は長岡藩士が拾い残した継之助の細骨を集め医王寺に手厚く埋葬した。合掌。

今回お邪魔させて頂いた河井継之助記念館。この施設が先に立ったのではなく移設された終焉の間の上に建設されたと言うからびつくりだよね。

営業時間等は下記リンクからチェックしてね。

河井継之助記念館【施設・交通のご案内】


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